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✿2024年3月「南無阿弥陀仏が私の救われる しるしであり 証である」〈梯 實圓〉

2024/03/01

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2024年3月「南無阿弥陀仏が私の救われる しるしであり 証である」(梯 實圓 氏)

文:巨谷 学(新潟教区・善了寺)

日頃私は、「念仏=南無阿弥陀仏」を、朝のお勤めの時やご門徒の家でのお勤めの時など、一日に何十回、何百回と称えています。多くの真宗門徒の方々も、一日にたくさんの「なんまんだぶつ」を口にしていると思います。その「なんまんだぶつ」が、「私の救われるしるしであり、証である」というこの法語は、どういうことを示されようとしているのでしょうか。

そもそも「私が救われる」ということは、どういうことでしょうか。普通私たちは、「願いが叶う」とか「物事が思い通りになる」とか「苦痛がなくなる」というのが「救われる」ことだと考えます。日常の中での私たちの願いや思いは、「ああなったら良いのに」「こうなりたい」ということですが、それらは大体思い通りにならず、たまたま叶うことがあっても、「もっともっと」と新たな望みが出てきます。実は私たちの願いや思いは、尽きることのない欲求、欲望であり、仏教の「救い」とはほど遠いものです。では、仏教の「念仏=南無阿弥陀仏」の「救い」とはどういうことなのでしょうか。

映画にもなった、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の主人公バスチアンは、容姿も能力も自分の望んでいるものではなく、周りからいじめられていました。そんな彼は、ちがう自分になることを物語の中で次々と叶えていきます。そうして行きついた先が、「からっぽ人間(虚しさだけの人間)」でした。しかし、仲間に助けられ導かれて、本当の望みとは「あるがままの自分」に成ること…、そのあるがままの自分を愛し受け入れてくれる人とその世界に生きることだと気づき、今ある自分と元の世界に戻っていきます。

仏教の救いは、容姿や能力が変わったり、心が向上したり、清らかになったりすることではありません。その救いとは、いのちの長さや、容姿や能力や才能とは質を異にして、「今、ここの自分自身になって、生きることを始めること」だと教えられます。

「今」は過去とも未来とも直結している「今」であり、「ここ」は世界のあらゆることとつながっている「ここ」であり、「自分自身」とは「あるがままの自分」です。その「今」「ここ」の「自分自身」から生き始めること、それが仏教の「救い」なのではないでしょうか。その道に立ち、その道に戻って、その道を歩むことが、「いのちの真実」であり、「本当の望み」であり、「本当の救い」なのだと思います。救いとは結果や結論ではなく、「確かな歩みを始めること」なのではないでしょうか。

「念仏の中で(有縁の)諸仏と再会するんです」と言っておられた先生が、私の父の葬儀の際、弔電を送ってくださいました。

お父さんが浄土へかえられたことを証明するためにも、これからは、

  お父さんを心の中によみがえらせ、お父さんと共に生きる身となっていくように。

「南無阿弥陀仏が私の救われる しるしであり 証である」との法語は、「南無阿弥陀仏」が、私を真実の願いに呼び戻し、真実の道に立ち帰らせ、真実の道を歩ませる声であり、力であるということを言ってくださっているのだといただいております。〈了〉

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